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関ヶ原の戦い 第218号

今月は、私の個人的興味が優先した内容のため、長文になることを予めお許し下さい。 どうしても本コラムで取り上げたくて、この古戦場訪問記となった次第です。 前々から一度は訪れてみたいと思っていたのですが、やっとこの8月30日に休みを利用して出かけました。 結果的には一日だけで全箇所を見られなかったので、もう一度、いつか行きたいと思っています。 今回はその訪問記を書かせて貰います。 改めて申し上げますが、その場所こそ日本の戦国時代の混乱期に終わりを告げた古戦場なのです。

当日、私は少し興奮した気分でした・・・ その古戦場に日本中から10数万の大軍が東軍と西軍に分かれ、死闘を繰り広げた場所だからです。 電車を乗り継いで約2時間半、最寄り駅のJR関ヶ原駅へ着きました。 一体、どんな所なのだろう?・・・ ここで419年前に死ぬか生きるか、どちらかを決めた場所だったのです。 こんな小さな場所に10数万人が集まったのです。 そんな感慨深い気持ちでした・・・

しかし、その日は生憎と雨で、しかも霧が出ていて、時々は雷も鳴っていました・・・ 合戦当日の運命の日のような天候でした。 まるでその日の再来です・・・ さすがに観光客の姿はなく、私が一人で歴史の中にいるような錯覚すら感じました。 そんな中を折りたたみ傘一本で、一人、とぼとぼとひたすら歩いていくのです・・・

まず、最初に向かったのは西軍の事実上の大将である、石田三成が陣取った笹尾山です。 この笹尾山に登っていくまでも途中は誰にも会いませんでしたが、山中で「熊に注意!」の立札を見た 時は「ドキッ!」としました。 熊だって出て来てもおかしくない雰囲気でした・・・ ちなみにこの日は10キロ以上も歩くのですが、この時はまだその大変さが分かっていませんでした。

関ヶ原の西北部にある小高い山が笹尾山で、ここに1万5千の軍勢が陣取りました。 どうしてここに石田三成が陣取ったのか、私には分かりませんでした・・・ 一番奥まった西北の場所なのです。 私ならもっと南の西軍の真ん中くらいに陣取ります。 気になっていた小早川秀秋の陣にも近くなり監視や睨みもやりやすくなります。 私だったらと、いつの間にか自分が当時の武将になったような感覚で歩いていました。 確かに、守りにも攻めにも都合の良い場所ですが、事実上の大将ならば全軍の士気も高める為や裏切り者対策の為にも、もっと南へ下った場所が相応しかったのではないかと思いました。 うすうす三成も感じていた筈です。盟友の大谷吉継は感じていたのですから・・・

石田三成の直ぐ下方には、「三成に過ぎたるは佐和山城と島左近・・・」と言われた豪腕の島左近の陣があります。 この左近は勇猛果敢な三成の片腕で、自らも兵を連れて戦いの中へ何度も挑んでいく人物なのです。 実際、敵の東軍でも勇猛な井伊直政軍と戦いましたが、その時の勇猛さから「鬼左近」と恐れられたようです。 後々、戦いを思い出すだけでも怖くなったと言われる程の人物なのです。 三成も自分の家臣に迎える際には三顧の礼を尽くして迎えたそうです。 頭が切れるばかりではなく、勇気があり武勇に優れていれば、誰でもそのように感じ入ると思います。 しかし、島左近は合戦時に何度も出陣しては戻って来ていたようですが、しまいには戻って来ないばかりか、 首も見つかっておらず、戦場で一兵卒と分からなくなるまで戦い果てたものと思われています。

その次に訪れたのは、私の郷里からはるばる西軍へ加わっていた島津義弘と甥の島津豊久の陣跡です。 島左近陣からは15分ほど南側へ歩いたところにあります。 周囲には今は農家が点在しています。 そこに立派な記念碑が建っていました。 へえ、ここにいたんだといった感慨がありました。 九州鹿児島からはるばる関ヶ原まで来てここに布陣していたとは、昔の人は凄いなあと思います。 そんな義弘は戦さが始まっても動かず、陣に向かってくる敵兵のみ相手にして戦っていたそうです。 計1500~1600名の小さな軍勢なのです。 実は、彼らは藩兵ではなく、義弘を慕って鹿児島から馳せ参じた私兵が多かったようです。

地元鹿児島での義弘は、領民に優しく、一人ひとりに気遣いを怠らず、声を掛け、相手が大人でも子供でも いたわり深い、そんな人物だったようです。 義弘は後で第17代薩摩藩主にもなっています。 その義弘が亡くなった時、殉死禁止の命が出ていたにも関わらず10人余りの殉死者が出ました。 そんな藩民に慕われる藩主だったようです。

また、義弘は文禄慶長の役に秀吉の命令で出兵し、泗水の戦いで危機的状況にあった中で日本軍7千名で明と朝鮮の合計3万人程の軍と戦い、見事に勝利し、朝鮮南西部に取り残されそうになった小西行長 軍の孤立を救うと共に、蔚山にいた加藤清正軍との連携を絶たれることも防いのだです。 分断されていれば、小西行長も加藤清正も生きて日本へ帰れなかったかも知れません。 このことなどが微妙にこの戦の後に薩摩の処遇に影響を与えた面もあるのではないかと私は思っています。 これが島津義弘なのです。

関ヶ原の話に戻りますが、島津の陣から少し南へ離れた所に、キリシタン大名で有名な小西行長の陣跡があります。 今はスポーツ公園のような場所に陣跡はあります。 この人は後に捕らえられ、自決するよう言われますが、キリストの教えに従い自決は出来ないと言い放ち、打ち首となりました・・・

雨は、前よりも更にひどくなって来ました・・・ 傘を差して歩いていても、頭も濡れ、長ズボンも半分はずぶ濡れ、靴の中はびしょびしょで、そんな風体でうす暗い山中を歩き続けていました・・・寒いし、薄暗いし、ピカッと光るし、心細いし・・・山中の道は川のようになりドロドロで、右や左へ移動しながら歩いていると、今にもあたりの茂みから鎧を着た落ち武者が飛び出して来そうな、そんな妄想すら感じたりしていました・・・ しかし、歩かない限り次の陣跡へはたどり着かない状況下です。

関ヶ原は凄い所だなあと思いながら、次は宇喜多秀家の陣跡だと思いながら、ひたすら濡れながら歩き続けました。 確かに陣跡の案内はあったのですが、その山道から更に坂を上って行く案内だったので、もう疲労の限界だった私はそこまで登っていくエネルギーがありませんでした・・・ 遠くからその方向を眺めて通り過ぎました・・・ 本当は是非とも行きたかった所なのです。 宇喜多秀家には妙に親しみや崇高さや潔さ、そしてもの悲しさを感じるのです。

そこから小さなダムみたいな所を通りすぎると、今度は本当の山道になりました。 なんでこんな日にこんな山登りのようなことになるんだ!と思いながら、歩かなければ戻れない自分を恨めしくさえ思いました・・・ そして、やっとまともな道路に出たのです。やったあ!これで戻れるー!と思いました。

戻る途中に平塚為広の碑がありました。 大谷吉継の陣跡も近くにあったのですが、歩くのがやっとだったのでここで帰ることにしました。

そこからは国道21号線をひたすら東へ歩くのです。2キロ位歩くでしょうか?・・・ 歩いているのは道の端なのですが、雨水が凄くて、大型トラックにバッツシャーン!と水をかけられても愚直になって、ひたすら歩き続けました・・・ 小一時間は歩いたと思います。やっとのことで関ヶ原駅に出ました・・・。 松尾山の小早川秀秋の陣地跡も見たかったのですが、そんな天候の中を歩いて行ける道中ではありません。 お腹が空いていることが分かったのも、我に返った駅前に着いてからです。 昼も食べていませんでした・・・こんなに大変だとは・・・ その時に食べた、21号線沿いのうなぎ屋で食べた鳥のから揚げ定食は一生忘れられません!・・・ 美味かった・・・生き返った・・・ 着ていたTシャツもその店内で着替えましたが、ズボンとびしょびしょの靴はそのまま家まで続きました・・・

関ヶ原の戦いでは、五大老の一人だった徳川家康が東軍を率い、その軍勢はおよそ7万5千人と言れています。 一方、石田三成率いる西軍は総大将こそ五大老の一人である毛利輝元でしたが、実際には毛利秀元が毛利勢を率いており、軍勢は東軍より数千から1万ほど多く8万5千人と言われています。

この関ケ原ですが、地理的には南北3キロ、東西7キロの周囲を高くはないですが山々に囲まれた山間地です。 ここに15万人を超えた軍馬や刀や槍やら弓矢やら鉄砲を持ち込んで戦うのですから、私に言わせればギューギュー詰めで、よくぞこんな狭いところで戦ったなあと思います。 特に、東軍の武闘派の福島正則と西軍の宇喜多秀家や大谷吉継とは目と鼻の先みたいな距離間です。 普段から余ほど互いに睨み合っていたんでしょうか?・・・ 福島正則が先鋒を担いたかった勢いや気持ちも察します察しました。

開戦に備え、西軍は東軍より早く陣取りを行い、夜中までに陣取りを終えています。 その陣形は「鶴翼の陣形」で兵力の多いとされた西軍が兵力に劣る東軍を挟み込む狙いです。 しかし、これは実現しませんでした・・・ 小早川秀秋の裏切りによって挟むどころか、逆に正面と真横から攻められる羽目になったのですから。

東軍は夜中までかかって関ケ原に着陣した上、軍勢も西軍より若干少なく、平地が多く「魚鱗の陣形」を構えました。この陣は中央突破に向いている陣形と言われています。 大きく陣形には8通りあり、これを考えたのは、あの三国志に出てくる蜀の天才軍師の諸葛孔明です。 また、家康の後方には西軍の吉川広家や毛利秀元など凡そ2万もいたのです。

これらを考えれば、どう観ても西軍が有利で負ける陣形ではありません。 西軍は小高い山を背景に上から下へ東軍が見えます。東軍は平地に点在しており、西軍からは丸見えです。兵員数も多い。早く着陣し、東軍より疲れも少ない。どう見ても本来は西軍の勝ち!です。 それがどうして????(これが今回のテーマです) ではここから具体的に話を進めます。


1.東軍武将の紹介 まず、東軍から紹介します。 古参の武将は名門である井伊家から井伊直政、松平忠吉、本田忠勝、細川忠興、黒田長政、田中吉政、藤堂高虎、京極高知など約8万弱の軍勢で、先に書いたように平地に点在し陣を敷いています。 特に、家康の陣は西軍の毛利が動けば、石田三成との挟み撃ちで西軍が勝ちます。 東軍で最も大きな軍は家康本体の3万を除けば、福島正則で総勢6000人、細川忠興と黒田長政が各5000人、残りは3000人以下ばかりです。

軍勢の特徴は家康の家臣と豊臣秀吉配下だった武将達が中心です。 特に、晩年の秀吉のやることについていけなくなった元秀吉家臣や石田三成の裁定や政事に反感を持っていた者達が秀吉没後に離れていった点が目立ちます。 秀吉は晩年は猜疑心や疑心を周囲に持つようになり、自分の跡取りとして関白にまでした甥の秀次を捕らえ高野山で自決させ、更に京の三条河原で一族、老若男女関係なく39人も殺しています。 これなど狂気の沙汰です。 同じく、自ら茶の湯を好み大いに奨励したにも関わらず、千利休すら殺しています。 これらの殺戮に近い不祥事にも三成は絡んでいます。 さて、東軍に参加した武将の平均年齢ですが、43歳だったそうです。 最年長者の武将が金森長近で77歳、最年少は松平忠吉で21歳、家康は59歳です。 人生50年の割には、皆さん意外と高齢です。


2.西軍武将の紹介 西軍は東軍よりも8000~1万人近く多かったようで、最近の話の中には全くこれとは逆に東軍が圧倒的に多くて10万人を超えていたという説などもあります。 恐らくこれは裏切りや傍観者を含めた数だろうと思います。

主だった武将は、石田三成、島左近、蒲生郷舎、小西行長、宇喜多秀家、大谷吉継、島津義弘、島津豊久、小早川秀秋、赤座直保、小川祐忠、朽木元綱、脇坂安治、毛利秀元、長宗我部盛親、長束正家など凡そ8万5,6千名の軍勢で1万を超える武将は3名もいます。 集まった武将の平均年齢は40歳と東軍よりやや若く、最長老が後で出て来る島津義弘で66歳、最年少はこの天下分け目の勝敗を決定付けた小早川秀秋の19歳です。 驚かれると思います。関ヶ原の雌雄を決定付けた人物が一番若いからです。

ここに特筆すべきは、西軍の多くは義理というか、半ば戦わない軍が多かったことです。 特に、家康の本陣背後の南宮山に陣取っていた毛利秀元は参戦せよとの三成よりののろしを見ても、山から下る気配を見せず、弁当中であるとか言って今は出撃できないとか、前に吉川広家の軍がいて出て行けないと言い訳ばかりを三成へ報告していることです。 これは吉川広家などの重臣が西軍は負けると考えていたことと、東軍の黒田長政らと内通していたことが挙げられます。 後々、輝元や秀元は末代までこのことを世間で蔑まれ、宰相殿の空弁当と言われ、蔑まれ続けます・・・ 毛利輝元は西軍の総大将であり、豊臣秀頼を擁護する立場の五奉行の一人でありながらも関ヶ原での1万6千の大軍は、その有利な位置から家康を取り囲むことをやらず、それが西軍の敗因の一つになっています。 藩の重鎮たる吉川広家や毛利藩家老のお家大事の考えから、動かずの方針を貫いたのです。 結果的には毛利家は安泰となりましたが、元々与えられる筈であった吉川広家用の領地を吉川や東軍の諸将より言われ、その分を毛利家へ与えたのです。この結果、毛利家は石高120万石から37万石へ大減封となったのです。本来なら改易されていてもおかしくはない話です。


3.前夜から早朝にかけての布陣 実際に歩いてみれば分かりますが、西軍も東軍も当時は街路灯がある訳でもなく、真っ暗闇の山中を、夜を徹して歩き続けて布陣するのです。 今、再現してみても大変な難行だと思います。 秋雨の中、夜を徹して翌朝までに布陣を完了するのです。 寒い、お腹が空いた、荷物が重い、眠いなんてものじゃないです・・・

実際に季節は旧暦の9月15日で、新暦で言えば10月21日です。 秋雨が降れば、関が原は山間地で今でも寒い所です。 ろくに寝ていないし、冷たい食べ物しかなかったでしょうし、秋雨で身体は冷えています。 おまけに濃い霧が覆っていたそうです。

私が訪ねた時も雨が降っていて、霧が山里近くまで下りていて、おまけに雷も鳴っていたので400年前など今は想像が出来ない状況だったと思います。 こんな中で槍持って、鉄砲持って、弓矢を使って敵と戦うなど400年前の先人達は凄いとしか言い様がりません。しかも、草履ですよね・・・ハアッーと言いたくなる時代というか苛酷です。


4.戦いの始まり 合戦は最初、石田三成に恨みを持つ、勇猛果敢な福島正則が先陣を切る約束だったのですが、井伊直政と松平忠吉が、正則に一番手柄を取られたら後々まで吹聴されて鼻持ちならないと示し合わせ、正則よりも先に抜け駆けし、宇喜多秀家の陣へ鉄砲を打ち込み、それが決戦の始まりになりました・・・ 後で、福島正則は約束が違うといきり立ったと言います。 何せ一番手柄を取られたのですから・・・ また、この戦では東軍、西軍とも、のろしの合図が重要な連絡手段でした。


5.裏切りの始まり この話では西軍の小早川秀秋の裏切りが有名な話ですが、実は秀秋が裏切ったことを知って、自分達もとその時の状況で寝返った裏切者がいます。しかも、本来の目的は小早川の監視役だったようなのです。 それが4名もいます。 小早川の陣の下に陣を張っていた4名です。それは赤座直保、小川祐忠、朽木元綱、脇坂安治です。 流石にこれは予想外の出来事だったようで、大谷吉継はこれで破れたようなものです。 吉継は小早川の裏切りまでは読んでいたと言われています。

この4者は機をみて、仲間を裏切った卑怯な者として、後に家康からも手厳しく扱われ、死罪にされています。 武士の風上にも置けない奴らだということです。 これは毛利輝元も同じです。戦わなくとも石高を1/3以下に大減封されたのはそういうことです。

この点、東軍に付いた加賀前田家は初代の利家は亡くなっていましたが、秀吉と親しかったこともあり、家康と同じく豊臣秀頼を守護する五大老の一人でしたので、家康はこの際に勢力を削ぐ何か策を講じたかったのですが、2代目の前田利長が上手く立ち回り、加賀百万額は安堵されました。

しかし、よく考えてみると家康は自分が内通工作を行い、言葉巧みに石田三成やその他西軍の面々を落とし入れておきながら、決戦が始まる前までには内通の約束をした者には褒美を与えるとは損得勘定の凄い人物です。 反面、その後からの謀反者には手厳しい対応を実行しています。 この辺りにも家康の凄さを感じます。 強いものが生き残るのは事実ですので、何とも言い難い百戦錬磨の怖さをここに感じます。 秀吉がもしあと5年、長生きしていたら、どうなっていたか分かりません。 もっと冷酷卑劣な策を用いて家康を陥れ、豊臣家安泰が続いていたかも知れません。


6.本戦 いずれにしても、この天下分け目の戦いは、当初は西軍が押し気味で、場所によっては200メートル以上も東軍を押し戻してもいます。 こんな勢いが弱くなり、逆に攻め込められ始めたのは、間違いなく裏切りや動かなかった大軍によるものです。 実際に計算してみると、西軍の方が動いて軍勢は東軍より少ないのいではないでしょうか?・・・ しかし、それでもその最大のものが小早川秀秋の裏切りです。

小早川陣は陣取っていた松尾山から下り、西軍の南端にいた大谷吉継軍の真横へ攻め入ります。 大谷吉継は秀吉に使えた軍師であり、戦さ上手で知られています。 頭から頭巾で覆い、顔を見せないその風貌は恐ろしくもあり、不気味でもあり、強い印象を人へ与えますが、 実は病気の為にそうしており、その病気はハンセン病だったと言われています。 この戦いでは目も見えなくなっており、輿に乗って陣頭指揮したと言われています。 男気の強い、信頼や友情や信用を重んじる傑出した人物の一人です。 一説によると、小早川秀秋の裏切りを事前に予測していたと言われています。

しかし、それ以外の赤座など先の裏切り4将までは予測しておらず、小早川の1万5千の軍にたった2千余りの大谷軍の横っ腹を突かれたら一たまりもありません。そこには更に福島正則軍もいたのですから・・・ 吉継は戦場で腹を切り、家来に首を取られぬように隠せと言い残したそうです。 実に、凄い人物だと思います。 多くの武将から良くは思われていなかった石田三成と盟友になった理由も吉継の人柄を表しています。 吉継が飲んだ杯の酒を病気が移るのではないかと気にして、誰も飲まなかったのに、三成は気にすることなく飲んだそうで、このことが永く二人の信頼は築かれたそうです。 こういった人物はなかなか今でも出てきません。 私の好きな人物でもあります。 しかし、その戦う姿には多少なりとも怖いものを感じます・・・

さて、大谷隊の先鋒役だった戸田重政や平塚為広が兵力の勝る小早川隊に負けると、大谷本隊も総崩れとなりましたが、更にその北側で戦っていた宇喜多秀家の1万5千にも小早川勢は襲いかかっていきます。 宇喜多隊も正面ではなく、側面を大軍に急襲された形となり、徐々に劣勢に立たされていきます。 宇喜多隊が最後まで踏みとどまって戦い奮戦している最中、秀家に重臣から戦場から逃げることを勧められます。 大坂に帰れば、まだ再起を図ることも出来ます、どうかここは逃げて再起を図って下さいと説得されたのです。 秀家は重々、退くことを決め、踵を返し西方へ落ちて行きます。 こうなると西軍はもう持ちはしません・・・

残るは西軍の事実上の大将である石田三成ですが、私にはどんな人物なのかよく分かりません。 よく茶坊主上りとは聞いていますが、頭が良く機転もきく、今でいう秀才タイプだったと思います。 頭では分かるけど、好きにはなれない、嫌な感じがするタイプだったのだろうと思います。 人へも心遣い、気遣い、配慮は足りなった人物だったのではないでしょうか?・・・

このように大局的な敗因は分かるのですが、三成も大将なら少しは軍事的行動でも名を残して貰いたかったと思います。兜の両端の極端に長い飾りは空威張りではなかったと信じたい。 7千と言われる軍を持っていたのですから、戦わず逃げたなどと後世の人に言われることも分かっていた筈です。 三成の家臣の島左近がすぐ近くであそこまで凄まじい戦いをしたのですから、再起を図る居城の佐和山城へさったと逃げ帰るような行動より、関ケ原に残ってやるべきことがあったと私は思います。 こんな状況なので頭は良いのだろうが、大将の器ではないとの印象を持ってしまいます。 盟友の大谷吉継は籠に乗り、目すら見えないのに最後は腹を切って果てているのです。

死は誰にとっても怖いものでしょうが、その覚悟があって起こした戦いであった筈ですが、所詮は確率や理屈だったのかと思ってしまいます。 逃げて、竹藪の中から見つけ出され、やがて首を切られ、晒し首になるのだったら、そこまで生き恥を晒すことも無かっただろうにと思います。 関ヶ原では8千から1万が死んでいるそうです。 死に場所が違ったのではと思います。


7.島津の退き口 やっと地元人の話になりました。 この「退き口」という言葉をご存知の方は、関ヶ原の戦いをよくご存知の方だと思います。 しかも、ある有名な故事についての話でもあります。 それは私の故郷、鹿児島に関係が深い話で、私も小さい頃から聞かされていた話です。

実は、軍勢は少ないのですが、薩摩からも西軍へ約1500人前後が参加しています。 しかも、正式な藩の軍ではなく、島津義弘を慕ってついて来た私兵の集まりです。 この義弘の甥っ子である島津豊久も参軍していて、この豊久の働きが大きかったのです。 この2人でそれぞれ7、8百人ずつを従えていました。

薩摩が正式な藩の軍を出さなかったのは、当時の藩主である第16代藩主の島津義久(義弘の兄)が義弘からの出兵要請を悉く無視し、藩の安堵を最優先したからです。

さて、戦いそのものですが、義弘と豊久は夜討ちの案を石田三成に奏上したのですが、三成から大軍である西軍にはそんな案は無用であり、そんなことをしなくても堂々と勝てると言われたのです。 このことへの不満や翌日の出陣を要請された際の三成の使者である五島何某が、下馬せず馬上からその催促を言われ、礼を逸した高慢さに腹が立ったこともあり、薩摩軍は自軍に向かって来る敵軍は排除するが、それ以外は動こうとしませんでした・・・

しかし、朝8時から始まった戦いは午後2時頃には西軍の負けが濃厚となり、薩摩軍は周囲を東軍で囲まれてしまいました。 義弘はもはやこれまでと自害を決意しますが、甥の豊久に何としても叔父上は、国許へ帰り、戦の後に起こる薩摩への責任追及を防いで下さいと懇願されます。。 義弘は、それが叔父上の生きて帰ることの役割ではないですかと言われ意を決します。

そこで、かの有名な島津の「退き口」(のきぐち。退き方)が決まります。 その戦法ですが、踵を返して敵に背を向けて退却することではなく、敵のど真ん中へ真っ直ぐに突き進んで逃げる捨て身の戦い方です。 反面、多くの兵や指揮官などが死ぬので被害は甚大となります。 義弘を死中から脱出させるため、豊久は覚悟し、何としても敵を防ぎ、義弘を生かして逃がすのです。 義弘は文禄慶長の役でも、泗川新城に篭城した薩摩軍5千人で、城の周囲をとり囲んだ3万人の敵軍に勝利しています。戦とは兵数の数だけではないということを知っています。

関ヶ原では、薩摩はたった3、400名までに減り、敵中に活路を見出すこの「捨て奸」戦法で見事に逃げ切り、義弘らを関ヶ原から脱出させています。 その戦法は、本隊が撤退する際に、兵の中から小部隊をその場に留まらせ、追ってくる敵軍に対し、死ぬまで戦い、足止めを行い、その小部隊が全滅すると、また新しい足止め隊を退路に残し、これを繰り返して、時間稼ぎをしている間に本隊を逃げ切らせるという戦法です。 足止め隊はまさに捨ておきであり、生還する可能性は殆どない薩摩独特の戦い方です。 刀の流派である東郷示現流と同じです。 示現流には最初の一刀で敵を袈裟懸けに切り倒すことしか方法がなく、一般的な二の太刀がありません。 二の太刀は自分が殺されることを意味します。一種の抜刀術です。一撃必殺の技なのです。

実際、義弘が東軍だらけの中を突っ切る際には、減っていた人数にも関わらず、福島正則軍を正面突破し、伊勢街道経由で堺へ出て、そこから船で薩摩へ帰って行きました。 この時、義弘は大阪にいた人質だった妻子も助けて連れて帰りました。

この戦法ではそれなりの備えがないと実現しません。 まず、鉄砲や弓矢などの腕が確かであることです。 実際、薩摩軍を追いかけてきた、東軍の松平忠吉、井伊直政は重傷を負い、本多忠勝は落馬しています。 直政はこのとき受けた傷が原因で後年、病死しています。 このように大将が狙い打ちされるのです。 敵中突破ですから、豊久はこの中で死んでいます。 義弘自身にも3本の矢が刺さっていたと聞きます。

鹿児島では私が小さい頃、よく周囲の大人からこう言われました。 男は、勇気がないといけない、嘘をついてはいけない、弱いものいじめは男の恥、議を言うな (理屈ばかりいうな)、やるかやらないか分からない時はやれ、こういった空気がそこには流れています。 少なくとも私達はそう言われて育ちました。 余談ですが、島津の退き口で行われた捨て奸には指名された者よりも志願者が多いのです。

今はテレビや雑誌やラジオ等で全国的に平均化された言葉や価値観が拡がっていますが、こういった独特の人材育成も尊いものだと私は思います。


8.石田三成の敗因 ここで西軍の負けた敗因を私なりにまとめてみたいと思います。 将たる者への戒めのようなものです。ビジネスの世界は戦と同じです。勝つか負けるかです。 敗因を考えることは重要です。考えることが勝つことへ繋がるからです。 私はビジネスの世界で勝ちたいのです!


(1)地の利 結局、自分で歩いてみて、地形や配置、陣形などを観るのに、万歩計では10キロを超えて歩きました。 西軍は後が山になっている所を選び、東軍は平地が多く、地の利で言えば西軍が有利です。 ただ、小早川秀秋の松尾山は標高が290メ-ルもあり、下ってくるのに20分はかかるそうです。 ここは攻めるというより守るような何か違う意図を感じます。 こんな山の上で、なお且つ本体から離れていなければならない理由は何なのか?・・・ということです。 それは毛利秀元や吉川広家の陣にも感じます。 毛利が動いていれば、東軍の動きは絶対に違っていた筈です。 そう考えると、この戦には訳ありの不自然さを感じます。 これらを差し引いても、裏切りや傍観者がいなければ、間違いなく西軍の勝ちです。


(2)三成と家康の人望差 この点に関しては家康の勝ちです。 まず、戦さの実戦経験ですが、家康に比べたら三成は全く経験が足りません。 それを補完するには、経験の深い、周囲の信頼できるブレーンとの繋がりの数が問題です。 三成にはそれが弱い。 頭の切れでは優っているかも知れませんが、命を賭けた戦場では勇気や行動力、一瞬の判断力が更に重要で、伊吹山へ向かって退却するタイミングも早いように思います。諦めるのが早過ぎます。 そもそもこの時が家康を討つタイミングとして最適だったか疑問です。家康にも寿命はあります。 のらりくらりとその時期を待っても良かったのではないでしょうか?・・・

東軍にいる武将にも、元は豊臣の家臣だった武将がいますが、秀吉亡き後、何故その人達が離れたかもっと考えるべきではなかったのでしょうか?・・・ 私に言わせれば、三成はその器ではないし、根回しが弱かったということです。 関ケ原の戦いは、家康に良い決着方法を与えたようなものです。時期尚早だったと思います。 私だったらもっと永い時間を使った策を考えます。 仲間と時間と安堵を与えることを上手く使うのが最上です。 勝つ戦さをすべきだったと思います。 才に溺れて急ぎ過ぎです。秀頼の成長を待つべきだったと思います。


(3)寝返りと人材喪失 やはり、小早川秀秋の裏切りやその監視役に配置した赤座直保他3諸将に至っては機を見ての裏切りです。 その他にも毛利元次にもです。何重にも情報網は張り巡らせておくべきでした・・・ 現代流に言えば、情報戦で負けています。 家康は巧みに家臣団を使って工作を行っています。 この点について三成は及びません。

西軍の多くが静観か裏切りです。 小早川が裏切らなかったら、三成の盟友の大谷吉継も腹心の島左近も死ななくて良かったし、毛利元次が動いていれば家康は動けなかったか、後ろから挟み撃ちにあっています。 いろいろと助けてくれた筈の宇喜多秀家も孤島に一生、流されずに済んだのです。 三成自分も捕らえられることなく、首をはねられることなく、三条河原にさらし首などにならずに済んだ筈です・・・ 間違いない策は家康の死期と秀吉亡き後の世の安定に苦心すれば良かったのです。 結局、三成はそれらを家康へあげてしまったと私は考えます。


(4)心の打算 三成は計算高い人だと思います。 関ヶ原で負けても大阪城には秀頼もいるし、お市の方様もいるし、どこかで打算が働いていたとの不信が拭えません。 三成が家康へ戦いを宣告したのも、家康が上杉景勝を攻めている時で、どこか打算的で計算高いずるさを感じます。 三成は負けて敗走しましたが、関ヶ原に留まって最後まで戦うという選択肢はなかったのでしょうか?・・・


9.因果応報 関が原の戦いの中で若い武将2人にスポットを当ててみたいと思います。 一人は参戦時に29歳だった宇喜多秀家、もう一人は東西の武将の中で一番若かった小早川秀秋です。 この二人には幾つかの奇妙な共通点があります。

それは、両人とも秀吉の今でいう養子だったこと、宇喜多秀家は小早川秀秋の裏切りによって自軍が 壊滅したこと、それから宇喜多秀家は所領していた岡山藩57万4千石を改易されたこと、その後釜にその裏切った本人の小早川秀秋が配置換えされたことです。

まず、宇喜多秀家ですが、西軍から逃げた後は島津義弘に誘われ、島津藩に2年ほど匿われますが、江戸幕府の知るところとなり、秀家、秀隆、秀次の親子三人はやがて少人数の家来と共に八丈島へ永久追放となります。 この島で秀家は、息子二人よりも長生きし、何とそこで50年間も生きたのです・・・

秀家の正室は前田利家の四女の豪姫です。 この豪姫は幼い頃、清洲城下で向かい側の長屋に澄んでいた木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)夫妻と夫婦同士でとても仲が良く、子供のいなかった藤吉郎夫妻に子供として豪姫を差し出したのです。 勿論、その豪姫を秀吉も妻も大切に慈しみ、実の子として育てたのです。 秀吉は長屋時代から仲の良かった昔馴染みを五大老にもし、秀頼の将来も頼んだのです。

また、秀家も早くから秀吉の養子となり、可愛がられて育った、今でいう出来の良い子だったのです。 その上、すこぶる二枚目だったそうです。 絵図を見ても秀家は超イケ面です。この二人が夫婦になったのです。秀吉の喜び様が目に浮かびます。 豪姫は、秀家が薩摩へ匿われる際に京都で、秀家と1,2日だけ会っており、これが今生の生き別れとなったのです・・・

後年、前田家では徳川幕府へ願い出て、八丈島にいる親子に米や着るものなど必要最低限の送りものを願い出て幕府より許可され、その贈り物はその後もずっと明治維新前まで続けられたそうです。 島に流された息子達は八丈島で嫁を貰い、後を絶やさないように何代にも渡って生きてきたそうです。 また、流人になってから10数年後に刑が許され、前田家から所領の中から10万石を分け与え、再び大名になってはどうかとの話を秀家に打診したそうですが、秀家は丁寧に断ったそうです。 また、秀家は現地妻も置かず死ぬまで豪姫と添い遂げたそうです。

実に悲しい、切ない、宇喜多秀家の生涯です・・・ 今は行き来も許され、豪姫の供養塔も秀家と並んで立っているそうで、きっと喜んでいることでしょう。 永く離れ離れだったのですから・・・ 悲しい話です・・・

もう一人、小早川秀秋ですが、彼も秀吉の養子になった人です。 関が原の戦い後の恩賞で、何と宇喜多秀家の所領だった岡山藩を拝領します。 しかし、秀秋はたったの2年でこの世を去ります。 まだ21歳だったと思います。 昼間から酒を飲み、亡霊に苛まされるような夢や虚言を口走っていたと言います。 一体どれだけの人達の恨みを買っていたのか分かりません・・・

この最初は似た者同士の二人が、関ヶ原の戦いで真逆の人生になった話にも厳しい人生があります。 複雑な想いになります・・・

最後になりますが、関が原にはもう一度、出かけてみたいのです。 今度は東軍から西軍を観てみたいのです。

関ヶ原、その狭い土地で、419年前に実際に起こった歴史です。 帰ってから島津義弘の話を調べていたら、何と命日が新暦では私が出かけたその日でした・・・ 本当に、暗くて、雨が降りしきり、雷も鳴り、林道を一人で歩いていると何かに出会いそうな気分でした。 改めて、その時の皆さんの魂に対し、安らかにと祈ります・・・

最後に、鹿児島市から西へ25キロ前後の伊集院というところに徳重神社という島津義弘が関ヶ原から薩摩へ戻って来た際に詣でた寺があります。 この寺は別名、妙円寺と言い、私が高校生だった頃には弁当持参で意味の分からない歌詞カードを持たされ、その歌を歌いながら、義弘公の遺訓を偲んで歩いてお参りする行事がありました。 俗に、妙円時詣りと言えば地元では有名な故事です。 伊集院は義弘が育った地元なのです。 これが私と島津義弘公を知った最初のキッカケでした・・・ 本当に薩摩から関ヶ原や江戸は遠い地だったと思います。 昔の人は本当に偉かったと思います・・・

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