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五黄の寅 第245号

新年あけましておめでとうございます。

令和4年の干支は寅ですが、更に今年は五黄の寅という、36年に一度やって来る特別な

一年になります。

聞き慣れない言葉かも知れませんが、中国の九星気学という易学と十二支の関係で起こる年だそうです。

中国では九星の一白水星・二黒土星・三碧木星・四緑木星・五黄土星・六白金星・七赤金星・八白土星・九紫火星の9種類に分け、十二支と併せた関係を運命や運気を占うことをやるそうです。この両方の組合せの中で五黄土星と寅年が重なるのが「五黄の寅」と言われる一年になります。五黄と寅年は九星では36年毎に1回訪れるのだそうです。


十二支はアジア諸国にも拡がっていて、元々は中国の戦国時代(紀元前200年以上前)に考えられた思想で、子・丑・寅・卯・辰・巳・午・未・申・酉・戌・亥の12種類があることはご存じのとおりです。一部の国では動物の一部が他の動物へ替わっている国もあります。

また、寅と虎は文字が違いますが、使われ方が異なり、寅は十二支で使われ、虎は動物として使われているそうです。

よって、年賀状には虎年よりも寅年を使うのが正しい使われ方のようです。


さて、この五黄の寅ですが、殊更、凄い運勢だそうです。

五黄寅年に該当する人には大きな一年になると言われています。

五黄土星は九星の中でも帝王の星と呼ばれ、周囲を圧倒するパワーの持ち主で最強の運気を持つとされる星だそうです。殊に女性であれば、手の付けられない程のワンマンというか、凄まじいパワーを持っていて、周囲も手が付けられない程に凄いのだそうです。

心当たりのある方もいらっしゃるかも知れません。

また、十二支の中の寅も強い正義感と信念を持ち、困難を克服していく強い意志と強固な行動力を持つと云われています。


五黄寅年生まれには、この二つの強運を併せ持っているので行動力があり、強い信念を持ち、思い立ったら迷わず行動に出る性格ですが、その半面、プライドが高く負けず嫌いで、周囲の意見に余り耳を貸さない面もあるそうです。

ある意味で自分本位の五黄寅年の男性は、リーダーとしての素質があるのですが、マイペースというか自分のやり方とスピードで仕事を進めていくタイプだそうです。

しかも、周囲の人を引っ張って行き、より高いポジションを目指していくので、出世していく人も多いそうです。


年明けからどうしてこんな話をするかと言いますと、実は言い難いのですが、私は五黄寅年だからです。自慢で話しているのでなく、人生も半分以上が過ぎた自分の人生をどうしたら

もっとよりよい成果を生み出せるか、自分自身を振り返ってみようと考えたからです。

割と当たっているかも知れません・・・


思い返すと、小さな頃から自立心が強く、頑固で、自分の考えや意思を押し通す傾向が結構強く、一人でもやり遂げる頑固さや強情さもあったと思います・・・周囲は手を焼いたことと思います。

小さい頃から近所では有名だったようでガキ大将で、よく年下の仲間を連れては山中を走り回って、お百姓さんには申し訳ない悪事も結構やりました・・・

例えば、畑の大根を抜いてそのまま葉っぱだけ置いて逃げたり、サツマイモを抜いて山の中で焼き芋にしたり、スイカや瓜を勝手に取っては食べたり、汚物の溜まっている池へ落ちたり、孟宗竹を組合せてやぐらを作って上へ登って遊んだり、山の監視員や犬に追いかけられたりと近所の悪ガキでした・・・

ですから、今でも親しい人から「おども」と言われたことがあります。意味は子供がそのまま大人になったという意味です。このような話は親戚からもよく聞かされました・・・


しかし、その反面、正義感が強く、弱い者いじめは土地柄もあり、してはならないことだと考えていました。何と言っても、西郷隆盛の話がよく出て来る土地柄です。

勇気を持て、弱い者いじめはするな、嘘はつくな、年寄りは大事にせよと、言われて育ちました。

一度、私にいじめられたと嘘をその子の親に話した子供がいる家へ、母親と謝罪に連れて行かれたことがありますが、身に覚えがなかったので頑として私は謝りませんでした・・・

こういった環境の中で今の自分が作られていったと思います。

子供の喧嘩に親は関与せず、負けて帰るようなことがあれば、もう一度行って来いと言われるような土地柄でした。

最も大事なことは「勇気を持て!」でした。


このような性格の為なのか、親父との仲は最悪でした。

中学生位から殆ど話をしないし、何かにつけて会話もありませんでした・・・

四人兄弟の中で、私だけがそういう親子関係で育ってしまいました。

父は公務員でしたが、太平洋戦争に従軍していて、支那(今の中国)へ行っていたそうです。

片方の足に玉の破片のようなものが入っていると聞いたことがあり、寒くなると痛みを感じることもあると言っていたことはよく憶えています。

戦争については殆ど話してくれませんでしたが、日本が負けて引き揚げる際の混乱する日本人社会の様子を1,2度聞いた記憶があります・・・

赤ん坊がいる人は帰還するには命がけで、さらわれたり、赤ん坊を手放したりした話も憶えています・・・

また、日ソ不可侵条約を反故にして、攻めて来たロシア人を憎み蔑視していました・・・


私はまだ小学生でしたが、市内のあちこちに戦争の傷跡が残っていて、戦争は恐いものだと感じていました。防空壕も近所に残っていましたし、コンクリートで出来た戦闘機の格納庫も市内の空港には残っていました。

海水浴に出掛けた時に、サイレンが鳴って不発弾が見つかったから水から上がるように放送された海水浴場も憶えています。今、そこには県庁が立っています。

こういった時代にその土地で高校生まで育ちました・・・


親との確執から、早く家を出て行きたいと早くから東京行くを決めていました。

父とは少しでも離れた土地で過ごしたいと耐えられなかったからです。

決して悪い父親ではなかったのですが、親子の関係では嫌いでした。

中学生の頃からその関係は悪化し、勉強もしなくなりました・・・


やがて、地元の県立高校へ進み、かろうじて東京の大学へ進み、毎日のようにバイトや遊びにと出歩いていました。

大学後半になって友達から紹介して貰った稼ぎの良いアルバイトをすることにしました。

それは新宿の歌舞伎町のど真ん中のビルで、まだ新しい職種のガードマンのアルバイトで、

24時間勤務、仮眠付きでやる日当の高いものでした・・・

当時、テレビでガードマンのドラマが始まり、少しずつ社会に認知され始めた時代です。

このバイトで隊長さんに気に入られ、やがて一緒に起業することになるのですが、その時はそのバイトが面白いのと怖いのと両方で、どこか自分の性分に合っていました。


当時の歌舞伎町はまだ路地も多く、怖い人達もいましたし、ビルなどにはそんな人達が結構働いていました・・・

また、夜中に一人で懐中電灯1本と警棒1本で誰もいない、暗い、雑居ビルの店舗を巡回すると良い肝試しになりました・・・

自分の足音に驚いて動けなくなったり、製氷機の氷が出来た時のザザーという音で身も心も凍り付いたこともあります。このバイトは本当に精神鍛錬にはなりました。

当時のガードマンには自衛隊、警察官、経営者だった人、現役大学生も居て、休憩時間での話が面白くて別社会を垣間見た気がしました・・・


大学卒業後はその時の隊長さんに誘われ、起業の真似事を8人の仲間と始めましたが、一年後に第一次石油ショックの影響を受けて、仕事が減り、事業継続が難しくなったので解散となりました。この時の経験が自分の一生を方向づけました。学生では知り得ない貴重な出会いや経験でした。こんな経験を23,4歳まで経験しました・・・その後は田舎に帰り会社に勤めたりしました・・・


やがて、大坂へ出て行き、IT業界に身を置くことになり、業界が発展する歩調と同じように自分自身も経験を重ね、会社の成長が物凄く早く、やがて社内ベンチャー設立に応募して10年間、そこのグループ企業の経営をやらせて貰いました・・・やがて、出来ることの限界を感じ10年後に退任し、今度は自分で会社を立ち上げました。


そのお世話になったIT企業は業界でも有名な創業者が創り上げた企業グループで、その創業者の言葉である「人生は感動ある歴史で綴れ」という言葉は自分の心に生き続けています。

熱い情熱や難しい目標があってこそ人生は違って来ます。

死が我が身に訪れるまで、この気持ちを忘れずに生きています。

残された時間を気にするよりも、実現出来ていない事業への強い想いが自分を奮い立たせます。老いるのは仕方ないけれど精神が老いてはならない。


五黄寅年と自分の生き様を改めて考えてみると、人生の時間が短いなと思います。

寅のように一匹でも諦めずにやって来たと思います。

まだまだ丸くなる気はありませんし、人と同じではいけないとも思います。

自分の人生を作らなければとつくづく思います・・・


それでは、皆さまにも良い一年でありますように。


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