過日、久し振りに一人で映画館へ行って来ました。私は高校時代は一端の洋画ファンで、よく一人で出掛けていました。今回の映画は普通の作品ではなく、ドキュメンタリー風の人物中心の作品でした。 私がこの映画を観ることになったのは、全くの偶然が始まりですが、私の中では「人と人の繋がり」が連鎖したとしか思えない作品でした。それだけにどうしても観に行かなくてはならない作品だったのです。その経緯は読んで頂ければ分かるかと思います。
この人と人の繋がりは、作家の司馬遼太郎氏の作品が縁となって始まりました・・・
大阪の布施にある司馬遼太郎記念館を最初に訪れた際、2冊の本が私の目に留まりました。一冊は「21世紀を生きる君たちへ」で、もう一冊は「故郷忘じがたく候」という本でした。 前書も買い求めて読みましたが、この年齢になって初めて作家の仕事冥利に尽きる話に深く感動したのです。司馬氏は自ら書いた本の中で、自分には時代を超えた知己や友がいてどれだけ幸せなものか、本当に心から恵まれた仕事をさせて貰っていますといった文面に、私はとても新鮮で妬ましいほどの羨ましさを憶えたのです・・・
今回の話は実は後書から始まりました。その小さな単行本を読んだ時には、まさか私の故郷を舞台にした話だとは全く思っておらず、その上私が卒業した中学校や高校にも縁があるとは全く思ってもいなかったのです。読んでいる内に大変に驚きました・・・
その話は、今から400年程前の「文禄慶長の役」に端を発します。豊臣秀吉が日本の諸大名へ命じて朝鮮侵攻の実話に関係のある話なのです。この歴史上の戦いを知らない日本人は多いと思います。 しかし、お隣の韓国ではその歴史をよく知っているのです。それはどんな役だったのでしょうか?
日本人は多くの人がもっと知るべきだと思います。
実は、韓国の朴クネ元大統領が現役時代に、このような言葉を発したことがあります。
憶えている方は少ないとは思いますが、私は直ぐに何のことか思い当たったのです。
それは「千年経っても忘れない」という言葉でした・・・
その様子をテレビで観た時に、咄嗟にこの役を思い出したのです。
この瞬間から、朴クネ元大統領の「1000年経っても忘れない」と言ったセリフと司馬氏が書いた一冊の本が私に対して強く繋がったのです。もう、他人事ではない話になった瞬間でした・・・
それは、関ヶ原の戦いを境に戦国時代も終わりに近づき、大名達の処遇も決まり、豊臣家もその後に滅んで、そこから260年余りも続く徳川家の天下へと移って行く、ちょっと前の話なのです・・・
関ヶ原の戦い以前の豊臣政権時代の話です。この時代に事実上の天下人となった豊臣秀吉が日本を治め始めた頃です。
その天下人は更なる大きな野望を抱きました。中国や朝鮮も天下に治めたいという大きな野望です。
秀吉は天下取りに際しても、本能寺の変の報を聞いて、実に早く電光石火のごとく京へ向かいます。その立ち回りが天下を手に入れた感があります。織田信長が本能寺で倒れ、秀吉はその時、備中高松城を水攻めの最中だったにも関わらず休戦にして、誰よりも早く京都へ馳せ参じたのはその頭脳の成せる行動に過ぎません。これが秀吉の真骨頂だと私は考えます。
その秀吉が中国の明や交易のあった朝鮮を服従させたいと欲を出し、力にものを言わせて、今の佐賀県北端に九州の諸大名等へ命じて大阪城に次ぐと言われた壮大な名護屋城を1年余りで築城させたのです。築城の目的は明や朝鮮国を従属させるための前線基地であったことです。 しかし、その野望は明からも朝鮮からも拒否され、それを理由に明と朝鮮へ名護屋から壱岐、対馬を経由して釜山へ向け、15万とも20万とも言われる大軍を送り込んだのです。
その頃の朝鮮は、李王朝建国から200年も経ち、穏やかな国だった筈です。その国へ有無を言わせず、力に任せて自分本位に攻め入ったという戦いが「文禄慶長の役」だった訳です。 その時の朝鮮側からみれば、不合理で理由にならない日本の身勝手な行動であり、それもいきなりの大軍で攻めて来た訳です。その上、当時の日本軍は戦国時代を生き抜いて来た戦さ慣れした大軍であり、穏やかな朝鮮へ一挙に攻め込んだのです・・・
当時の日本は対馬を経由して釜山に倭人(=日本人)村まであり、朝鮮との交易も行っていました。 そんな朝鮮にとって、まさか日本軍が攻めて来るなど思ってもいなかった筈です。日本軍は上陸するとあれよあれよという間(約2月程)に今の北朝鮮の奥まで攻め込んだのです。
幾多の朝鮮の人命が失われたことでしょうか・・・・たった一人の野望から起こった戦さです。
当然ながら、朝鮮側も普段の軍力は備えていたでしょうが、まさか日本軍が大挙して攻め入って来るとは夢にも思っておらず、その惨状は言葉に出来ない程だったろうと思います。
その慌てぶりを示すかのように、時の朝鮮王である第14代王の宣祖は、その報に慌てふためき、庶民にも日本軍が上陸したことすら伝えずに、我先に漢城府(現在のソウル)から夜に乗じて逃げ出したのです。この話は後々、宣祖が庶民にまで散々に罵られる原因になった出来事なのです。
しかし、日本軍も当初こそ勝ち戦さでしたが、明軍の加勢や朝鮮水軍で有名な李舜臣将軍率いる亀甲船隊に大損害を蒙り、多くの死者や負傷者を出し、船までも焼き払われ大損害を被っています。 この将軍は官位こそ高くはなかったのですが、その後は国の英雄として称えられ、今では銅像がソウル市内に建っている程です。
日本軍は一旦は和睦に持ち込みましたが、和議も続かず2度に亘って出兵しています。
2度目の途中で秀吉が亡くなった為、日本軍に撤退の命が下り、その情報を知った朝鮮軍や明軍から退路を分断しようと必死で、日本軍も大きな死傷者を出しています。危うく退路を断たれる可能性があった程ですので、両軍とも必死だった筈です。
この2回目の最中に今回のタイトルである「ちゃわんや」の組織絡みの拉致が行われたのです。朝鮮から日本へ引き上げる大名達が朝鮮の陶工達を拉致したのです。その朝鮮の陶工達が唐津、萩、薩摩などへ連れて行かれたのです。
祖国から引き裂かれ、言葉も何もかも分からない敵地へ連れて行かれ、食べるものすら違う国へです。この事実を知らない日本人が多いのです・・・
私が通った中学校は鹿児島市高麗町という町名です。当時はどうしてそんな町名が付いているのか知る由もありませんでした。また、通った高校も中学校の近くにあり、その高校にも今回の「ちゃわんや」の第14代目が通っていた高校なのです。
こんな話が司馬遼太郎氏のその作品の中で明らかになったのです。
実は、薩摩へ連れて行かれた朝鮮人陶工達が薩摩焼の元祖となり、薩摩焼を世に知らしめた訳です。
海を渡った薩摩の戦国武将こそ、島津義弘公と言います。地元では高名な部将で、後に殿様になった勇猛果敢な戦国部将です。この朝鮮侵攻の後に天下分け目の「関ヶ原の戦い」で西軍の大将だった石田三成が礼を持って接しなかったことに怒り、戦い当日は陣地から一歩も動かず、やがて西軍の負け戦さと分かった後、少数に減った自軍を率い、薩摩には薩摩の戦い方があると言い放ち、何と徳川家康の本陣目がけて正面突破で退却するという、前代未聞の戦いに挑み、見事、薩摩に帰り着いた猛将なのです。
関ヶ原の戦いで西軍に味方して改易や減封、或いは取り潰しにならなったのは西軍の中で唯一、島津藩だけでした。この義弘公は戦さ中でも、下の者達と同じ食事を摂り、皆と同じ場所に寝て、そして勇猛果敢に戦った部将だそうです。部下からは絶対的な信頼感があった武将です。亡くなった時には殉死禁令が出されたのですが、それでも殉死者が何人も出た程の人物なのです。薩摩ではそれ程に有名な殿様なのです。
そんな人物が何故、朝鮮で人としてやってはならないことをしたのか私には非常に不可解です。
情けも情もある人です。どうしてそのような事をやったのでしょうか?・・・
拉致して来た朝鮮陶工達を領内に一時的に住まわせた区域が、私の中学校がある高麗町なのです。
これで町名の謎は解けました・・・
更に、朝鮮から拉致して来た陶工達は名を決して変えてはならぬと厳命され、それ以降、薩摩焼の窯元は「沈寿官」という名前が、それ以降代々にわたって受け継がれ、今は15代沈寿官が窯元として続いています。
その映画では15代を中心に構成されており、先祖の話や祖国での修行や風景や話などを交えて映画は構成されており、本当にドキュメンタリー映画でした。しかし、私には他人事ではないような妙な気持ちでその映画を観ました。
この映画は私にとって故郷のこと、友達がいる韓国のこと、14代沈寿官と司馬氏とのやりとりなどを
通じて国籍や戦いとはどういうものであるかを再考する機会となりました・・・
実際に苦悩した沈寿官14代目が、当時、交友のあった司馬氏へ宛てた手紙の内容や司馬氏から沈氏へ送られて来た返事の原稿用紙に書かれた言葉に私の心は打たれました。
国籍を超えた人間同士の強い絆や友情を強く感じました・・・
失礼ながら、ソフトバンクの孫会長も司馬氏の作品に同じことを感じたのだろうと思います。
文禄慶長の役の意味、権力や天下人の欲、命令を受けた諸大名の立場や気持ちも重なって、司馬氏の作品も更に絡んで、国籍とか命令とか、人間はなんだろうかという問いかけで終わってしまいました。 人が罪のない人を殺めるなんて・・そう思いながらも、今も同じことを続けている人間は何なんだろうかと思います。武力は決してなくなりはしないでしょうし、人間として正しいことを貫き通すことは命と引き換えを覚悟しなければなりません。
この「ちゃわんのはなし」は、私の心に今も突き刺さったままです。
最後に理由はありませんが、人はどこかで、赤の他人でも別の人を経由して繋がっているように思います。人と人の繋がりは直接的になくても、どこかで繋がっているんだと思います。
今回は人の繋がりの不思議さを感じた次第です。
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